ショパンの半分はフランス人だった | ||
「革命のエチュード」は、ロシアの攻撃を受けワルシャワが陥落したのを聞いたショパンが絶望のあまり書いた曲としてあまりに有名である。だから、ショパンといえば熱いポーランド人の血がたぎっているということになっている。 しかし、母親は確かにポーランド人だったが、その父ニコラ・ショパンは、フランスのロレーヌ地方の出身のれっきとしたフランス人だった。 職を求めて、フランスからポーランドにたどり着いた人だったのである。ショパンがパリへ向かったのは、もちろん成功を求めてだったのだが、彼の血もまた第2の祖国を求めていたのかもしれない。 | ||
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